べき論が嫌いだ
どうも、ゴドーです。
まだ生きてます。
何々をやる「べき」だ。
す「べき」だ。
という言い回しが死ぬほど嫌いです。
たかだか数十年生きて死ぬだけの人間が本当にやるべきことなんてあるんでしょうか?
誰が決めたんでしょうか。
誰が守っているんでしょうか。
誰が応えてくれるんでしょうか。
やらないことも、しないことも、逃げることも、やることも、することも、戦うことも全ては自分で責任を負うからこそ、自分の足でこの世に立って生きるということだと僕は考えます。
ただし、「べき」という言葉を使わない「べき」だ。
なんて自己矛盾はしません。
ただ表明します。嫌いです。
何も、誰の責任も負わず、ただただ人を追い詰める言葉を、無配慮に、無作為に、無法に吐くものが。
人を許し受容する側というのは言葉を慎みます。選び、思考し、丁寧に伝えます。
人を追い立て拒否する側というのは言葉をただぶつけます。
その場合、この世に表出するのは後者が多いです。
そうなると前者の受け皿には、どんどんと自分と違う言葉が乗っかってしまいます。
それは辛い。
なので、僕はその言葉を吐くものの存在は許します。
自由に吐くといい。
ただし、表明します。嫌いだ、と。
僕は僕自身の言葉と価値観を持って人に伝え、受け入れ、この世で地に足をつけていきます。
ただの愚痴でした。
自由に生きていきましょう。
それでは。